
気づけば11月1日になっていた。
毎日犬の世話に行っているので帰りが遅く、朝は早く訪れ、仕事は俄かに締切多く、気づけば家の前の木に桃色の花が咲き、牧野家から頂いた電気ストーブが活躍しそうな季節にまでなっていた。
くーちゃんはまだ生きているが、年は越せないだろうとのこと。
とかいって越したりして。
9月の終わりに、
犬が倒れ、毎日病院に連れていくことになった。
ほぼ毎日それをしたけれども、
犬の血液検査の結果はどうにもよくならず、
悪くなる一方で、
やはり15年と3か月も生きていると、そろそろなのかもしれない、
と、母ともども覚悟を決めて日々、犬の命のことを考えている。
仕事をしていても、食事をしていても、
くーちゃんのことが気が気でならない。
が、しかし、私も私の生活があったりして、
ずっとは一緒にいてやれない。
できることはなんでもしたいと思うのだが、
だんだんできることもなくなってきた。
なでなでなでなでしてやると、
うっとりして、気持ち良くなっているのがわかる。
12キロあった子が、今は8キロちょっとにまで落ちた。
薄い皮膚の下に、すぐ肋骨があるのがわかる。
呼吸すると、ふくふくと動くのがわかる。
かろうじて歩くときなど、よらよらしていて、
立ち止まっても、ゆらゆらとカゲロウみたいに揺れていて、
もともと心もとなさそうな犬が、
今にもかき消えそうなところにまで来ている。
先月乗り切れるかどうかわからなかったのだけど、
乗り切ったので、もしやまだ生きるかもしれないと思うが、
それが犬にとっていいことなのかどうか。
母と二人、葛藤しているけれども、
良いとか悪いとかは、
ないのだと思う。
飼い主が、犬の死後、もっとああしてやればよかった、こうしなければよかった、など思うのは、しかたないのかもしれないけれど、
どっちにしろ、ああしてやればよかったこともこうしなければよかったこともないのだ。
良くも悪くもないのだ。
犬と生活し、犬を日々見てきた母と、
小さい体を初めて目にして、
小さな段ボールに入れて一緒に眠った私にしか、
わからないこと、ただそれしかない。
日々衰えていく体を、小さなケージに入れ、
ガラガラと病院まで引いていく時の、
道の悪さ、硬さ、冷たさ、
くーちゃんの早い鼓動、ふらふらと玄関まで歩く姿を、
毎日みつめている私と母にしかわからないこと。
自分自身のこころの内は、自分自身しかわからない。
だから何事も、決めるのは自分自身でなければならない。
死にかけている犬を、無理やり病院に連れていくことも、
注射を嫌がりだした犬に無理やり注射を打たせるのも、
そうしてはたいた大枚も、
大きな声で泣く犬を、どうしてやったらいいのかも、
その回答を出せるのは、母と私しかいない。
そしてそこに、善し悪しは断じてない。
そういえば、変なコメントがたくさん書き込みされるようになったので、コメントの書き込みできなくしてたら、今までのコメントがみられなくなってしまった。保存はしてあるのだけれども。
しっかりと、最後まで、そばにいてやりたいと思う。
朝起きる時も、目を閉じて眠るときも、
最後にくーちゃんの硬くなった体をなでるところを想像してしまう。
ミコが硬くなったみたいになるのだろうから。
そんなことがあってはならんと思うのに、
あるのがこの世に生まれたからには共通の決まり事なんだ、
犬よ、うまいもんでも食わせたる。

















